校長先生のブログ

(聖書)あなたの時、私の時

『何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある。』
(コヘレトの書3章1節)

Time

この一節の続きはこうです。
『生まれる時、死ぬ時。植える時、植えたものを抜く時。
殺す時、癒す時。破壊する時、建てる時。
泣く時、笑う時。嘆く時、踊る時。
石を放つ時、石を集める時。抱擁の時、抱擁を遠ざける時。
求める時、失う時。保つ時、放つ時。
裂く時、縫う時。黙する時、語る時。
愛する時、憎む時。戦いの時、平和の時。
人が労苦してみたところで何になろう。
わたしは、神が人の子らにお与えになった務めを見極めた。
神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されていない。・・・・・』(2~11節)

全人類に等しく時間は与えられていること。その時間をどのように使い生きてゆくかは、すべて私という個人に任せられていること。これは誰の目にも明白なことと思います。
今正に、私はブログの記事を書く時を過ごし、これを書き上げれば次の仕事に向かいます。
そして、この瞬間も地球上で約70億の人々が、何かしらの時を迎えているはずです。悩みが深かったり、抱えている問題がありながら、二度と巡って来ることのない「今この時」を私たちは生きていることを実感したいものです。

(聖書)人はパンだけで・・・

パン

『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』(マタイ福音書4章4節)

摂食障害のお子さんを持つ友人がいて、話を聞くことがありました。小学生時代から医者に通いながら治療を続けているのですが、原因らしきものが見当たらず、定期的な検診を行いながら高校も終わろうという年齢だそうです。娘さんは普通に日常を過ごしながらも、一度食事の量が脳裏によぎった瞬間から堂々巡りの悩みが始まり、パニック状態になるそうです。母親として今までできる限りの対応をしていたそうですが、まだ出口は見えていない状況のようで、娘さんの為にお祈りしたいと思います。

人は食べなければ生きて行けませんが、多くの人は食べることに違和感があったり、無理をすることはおそらく無く、何気に食べ物を口にしているはずです。しかし、生きてゆくための食で苦しむ人たちにとって、食は同時に自分の命に係わる重要な問題です。摂食障害治療専門のクリニックホームページにいくつかの対処法が載っていますが、その中で大切な柱として「心のケア」が挙げられていました。それはとても大切なことと感じましたし、上記の聖書と通じます。つまり、「心の健康こそが体の健康の源となる。」ということです。

心の健康のために、多くの人が「言葉に癒される」体験をしているはずです。家族や友人知人の何気ない一言に勇気づけられたり、慰められたり、癒されたり等々、重圧に圧し潰されそうな状況を乗り越えた経験を皆さんお持ちでしょう。それは私の立場で言えば、「神の口から出る一つ一つの言葉」ということです。そして、それは皆さん自身が人を生かす「神の言葉になれる」ということでもあるのです。

聖体

(聖書)柔和であれ

 

フランシスコ8

何事をなすにも柔和であれ。(シラ書317節)

アッシジの聖フランシスコの祝日(104日)は仁川学院の創立記念日です。私たちフランシスコ会士は、「アッシジの貧者」と呼ばれたフランシスコを敬愛の念を込めて「師父」と呼びます。師父はまさに、この聖書の言葉通り『柔和』を生きた聖人でした。しかし、自分に対しては決して限界を設けず、福音書の精神を徹頭徹尾生きようとした聖人です。

師父は数々の伝説を残し、その功績は世界の偉人たちの中でも群を抜いていることと、彼の作品である『太陽の賛歌』等から、陽(明るい・快活な)のイメージを多くの方々が持たれていますが、この『太陽の賛歌』こそ、彼の死に際に書かれたものなのです。

師父が帰天する約2年前、ラヴェルナ山で神から聖痕(キリストが受難の際、十字架上で受けた傷)を受け、その傷と厳しい修行のゆえに体は急速に悪化して行きます。様々な感染症や合併症によりほぼ失明状態となり、体の様々な痛みに師父はひと時も体の苦しみから解放されない状況の中で、命の終わりの時に向けて最後の歩みが行われていました。そんな中詠まれた『太陽の賛歌』。師父の精神が宿るこの詩を読む時、その眼差しの奥に『創造主』への深い深い信頼と感謝を、感じ取ることができるはずです。

私たちは苦しい時、苦しみの呻き声を上げます。そして、それは普通の反応でしょう。しかし、そんな中でも柔和でいることができることを、師父は私たちに示し、神もそのような境地へ私たちが歩んで行けるように招いておられる。それはあなたも例外ではないのです。

 

フランシス4M

 

(聖書)体は一つでも・・・

人々

体は一つでも、多くの部分から成っている。(体は)一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶ。(コリントへの第一の手紙121226節)

 

この聖書は分かり易いと思います。人間関係でも特に学校や会社で考える時、いろんなことが見えてくると思うのです。

さて、自分の筋肉に呼びかける芸人さんがいます。筋肉を擬人化しながら笑いを取る訳です。ただこれとはちょっと違いますが、感覚的に「体が喜ぶ」という体験があります。沖縄・宮古島で教会の仕事をしていた2004年春、トライアスロンに挑戦することを決意し、自分が一番苦手な3kmのスイムの練習に、島に一つしかない温水プールへ通った時のことです。最初は絶望的な位泳げないのです。今まで一回も真面目に泳ぎに取り組まなかった人間です。たった25m泳ぐだけでプールの壁で立ち上がり休憩をしなければならない程息が上がるのです。そして、その絶望的な状況が1ヵ月(約10回)位続いたある日、ターンして連続で50m泳ぐことができるようになりました。でも、それでもまだまだ絶望的な状況であることは間違いなく、また足踏み状態が2週間位続き・・・・・と、50mから75mになり100mと距離は伸びますが亀のような鈍さなのです。なかなか距離が伸びないもどかしさと焦りで「これは無理や、もう辞めるか・・・」と、何度もこの言葉が心を巡りました。しかし、そんなある時、自分でも気付かない瞬間から急に連続で泳げる距離が伸び始めるのです。気付いたら300m、500m、1000mと・・・・・。

それは後から分かることなのですが、泳ぎ始めた頃は体(皮膚)が水に馴染んでいないので、水の中に体を沈めること自体がストレスなのです。そんな状態ですから気持ちよく泳げるはずがありません。しかし、何度もプールに通い水に浸っている内に、いつの間にか「皮膚が水に馴染んでいた」のです。生物の起源は海と言われており、また私たちは、母の胎内に10ヵ月もの間浸っていた訳です。「その感覚が蘇ったかのような!」とでも言えるような感覚でしょうか。水中に沈むことに恐怖感も無くなってくるのです。自分の泳ぎが上手ではなくても、「泳ぐ喜び」を感じている、皮膚が水に馴染んでいると感じている時、「体が喜んでいる」ことを実感しました。

2005年春のトライアスロンは無事完走しました。この体験で人間の体が持つ可能性を改めて知ることができたことは、自分の人生観を大きく変えました。聖書のメッセージからは少し離れたかと思いますが、小っちゃな挑戦から始まる物語をお話ししました。

人々3

(聖書)あなたの重荷を主にゆだねよ。

 

重荷を負うもの

『あなたの重荷を主にゆだねよ、主はあなたを支えてくださる。』詩編55:23

今週の高校宗教朝礼、聖書一句です。

9月1日(始業式)を迎えたくない子供たちが増えていると、伝える記事に併せて、様々な問題で学校へ教室へ行けない子供達へ、上野動物園のメッセージが話題になりました。

私たちは様々な重荷を互いに担い合って生きています。しかし、時に周りに相談できなかったり、状況が許さなかったりで、苦しむことが沢山あります。問題の解決を自分のこととして取り組むことは基本となるでしょう。しかし何でも抱え込んでしまわないように、その人その人の強さ弱さに応じ、生きる上での工夫も必要なのだと思います。

そして、そんな中でも『抱えきれない程の重荷』について、神にゆだねることを聖書は勧めています。人も世界も宇宙も移り変わって行くものですが、神だけは『永遠に変わらない存在』なのです。私は今まで何度、神から救われたでしょうか。これは信仰でしか分からない世界ではありますが、神はあなたにも、この言葉を投げかけておられます。

 

終戦、聖母被昇天の日

被昇天の聖母

8月15日はカトリック教会の暦で「聖母被昇天の祭日」となっています。「キリストの母となったマリアは、人生の終わりに神によって肉体と霊魂を伴って天国にあげられた。」ことを祝うのです。

日本にとって大きな意味を持つ8月15日は、別の意味で世界中の人々にとっても重要な日です。戦争で亡くなられた方々の天国での安息と、憎しみ合いではなく支え合い助け合う世界の建設へ、想いを新たにしています。

世界中の母たちが願っていることは、無慈悲な争いで子供たちが命の危機に脅えるような日々が無くなること、子供たちの笑顔が更に輝くような安心安全な日々が訪れることであるはずです。

全人類の母として崇敬されている母マリアと共に、子ども達の未来を明るく照らす働きを、多くの人々と共に果たして行くことができますように。

写真は「プリタ礼拝堂の聖母被昇天の天井画」

倦まず弛まず

「祈り」浦上天主堂

高校卒業まで長崎で生活していましたので、8月9日は祈りの一日となります。

長崎でもキリスト信者は少数派です。平和と慰霊の「たいまつ行列」は夕闇迫る中、毎年行われていますが、観光で長崎を訪れている人も心を合わせて祈ってくださることが、何よりも嬉しいことでした。

世界は今、平和に近づいているのでしょうか、遠ざかっているのでしょうか。たとえ、世界が絶望の未来へ進んで行くようなことがあっても、決して諦めずに「平和を願い」「祈る」、このことを倦まず弛まず続けて行くのです。

平和の祈り

OLYMPUS DIGITAL CAMERA

長崎で生まれ育った者にとって、8月6日と9日は一生忘れることができない日です。

これらの惨事は人の心の醜さの仕業とも言えますが、同時に人には純粋で他者を赦し敬う心があります。平和を願う世界中の祈りの輪に加わって、小さな祈りを捧げましょう。

今日も祈りを捧げましょう

22回目の震災の日を迎え、今日も小さな祈りを捧げました。

災害による悲劇は避けることは出来ないかもしれませんが、その悲しみを少しでも減らす努力は誰にでも出来ることと心に刻み、女川小学校校長:阿部清司先生をお迎えして、防災の特別講演を中学で企画しています。2011年の震災の日から何度か女川を訪れましたが、表面からでは見えない女川からのメッセージをしっかりと受け止めたいと思います。

新たな時代を生きる生徒たちが、様々な災害にも負けず希望へと歩んで行けますように、神様お導きください。

祈りcandles

2016沖縄研修旅行第3日目

研修旅行3日目は初の好天となりました。この天気は那覇に持っていくことにし、せめて石垣の海と一緒に・・・ということで、私のカメラで撮ったのがこれです。

16Oki022  16Oki023  16Oki024

那覇着後は班別自由行動なので、お土産屋さんが集まる国際通りで見かけたグループをお送りします。「いいお土産買えたかな。」

16Oki025 16Oki02616Oki027 16Oki028 16Oki029 16Oki030 16Oki031

18時より大西正子様による「当時小学生だった少女の目から見た沖縄戦」のお話でした。戦争とは命を奪われた人はもちろんのこと、命を保ったひとにもあまりに過酷な宿命を課していく罪深い行為であることを真っすぐな言葉でお話ししてくださいました。沖縄戦を後世に語り継ぐ使命と覚悟を持った女史のお言葉でした。

講演後、ホテル玄関までお見送りした際「良い出会いでした。」と仰られた言葉が深く心に沁みました。

16Oki032

夕食は円卓を囲んで・・・。

16Oki033

夕食後は明日の予定を確認し解散。

明日は大西女史のお話を胸に南部地域巡ります。

今日も皆様のお祈りに感謝。

 

カテゴリー

アーカイブ

ページトップへ戻る
仁川学院 〒662-0812 兵庫県西宮市甲東園2丁目13番9号
Copyright © 2013 NIGAWA GAKUIN All Rights Reserved.

サイトマップ | 個人情報保護方針